9月
30
2006

YS-11

1962(昭和37)年7月11日に三菱小牧工場でロールアウトした試作1号機が、
1ヶ月に渡る性能検査を経た8月30日、「YS-11 PROP-JET」と描かれ、200人
以上のマスコミを招いて実況中継放送が行われる中、初飛行を行ってから44年。
国産唯一の旅客機である「YS-11」が、9月30日午後の
沖永良部―鹿児島便を最後に、国内の定期運航便から引退した。
これにより、日本の民間の空から国産の飛行機は消える事になる。
そういやジャンボジェットとして有名な「747」はボーイング社だもんね。
 

 
連合国の占領下から再独立し、GHQによる日本企業への、飛行機の
運航や製造の禁止が解除された事により、1956(昭和31)年、かつて
航空王国だった日本の航空機を再び飛ばしたいという航空技術関係者が
渇望していた国産民間機計画が打ち出され、翌年から
「財団法人 輸送機設計研究協会」(通称「輸研」)が設立されて、
小型旅客輸送機の設計が始まった。モックアップ公開後は、政府主導で
設立された日本航空機製造(NAMC)に開発が引継がれ、1960(昭和35)年に
実機の制作を開始。1962年7月から試験が開始された。

試作1号機が初飛行を行った年の12月18日には、現天皇陛下を招いて行われた
完成披露式典で試作2号機が初飛行。試作機で露出した数々の問題点を克服し、
1964(昭和39)年に運輸省の形式証明書を取得。同年9月9日には、
東京オリンピックの聖火を日本全土へ空輸し、国民に航空復活をアピールした。
 
【参考サイト】
≫asahi.com – 初飛行から44年、国産の翼「YS-11」国内便から引退
≫JAL航空機コレクション – YS-11
≫N.Hirai’s Homepage – さよならYS-11
≫三菱重工業株式会社名古屋航空宇宙製作所 – 【戦後】民間輸送機Photo Gallery
 
 
因みに僕の亡祖父は戦中、中島飛行機に勤務して零戦を制作して
いたのだが、その時の話を生前に何度か聞いた事がある。
軍需工場である飛行機工場は、真っ先に爆撃目標とされた関係で
何度も空襲にあったらしいのだが、その際に危うく反対の道を選んで
逃げていたら命が無かったという話などは、平和である今しか知らない
上に、聞いた当時が子供の頃だった事もあり、現実味が無く戸惑ったものだった。
そんないくつか聞いた話の中に、戦争末期なると人員や資材が不足し、
零戦もまともに作れない状況に陥り、飛行機が完成しても水平には
なっておらず、傾いている状態である事などが多かったらしい。
それで監察官が視察に来た時などは、傾いて持ち上がってしまって
いる方の翼に、何人かでぶら下がって機体を水平に見せ、監察官の
目を誤魔化したのだとか。これぢゃー勝てないよね┐(´ー`)┌

実機制作を任された、三菱から日本航空機製造へ技術部長として
出向してきた東条輝雄氏は、かの東条英機の次男で、父の勧めにより
軍人ではなく技術者を目指し、かつで零戦の設計にも携わったらしい。

国家を戦争という方向へ導いた事で結果的に日本の航空業界を停滞
させた者と、戦後の航空復活をなしとげた者が親子だったり、YS-11の
試作1号機の初飛行と僕の誕生日が同じだったりと、歴史って妙な感じで
関連しちゃっててヲモシロイですね。
え?・・・後者は別に歴史に関係ないだろってヵ?Σ(ノ∀`)ペチッ
 
 


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